わからないことだらけよ

2022年02月22日 08:33

昨日、気の合う音楽仲間と久しぶりにランチに出かけた。
実は彼女とはつい最近の出会いで、全く旧知の中でもなければ、出身地も学歴も、育ちも何もかも異なり、これといって共通点はない。
あるとすればお互いたまたま音楽をやり続けている点と、影響を受けたアーティストが同じだったと言うだけ。

見た目もタイプも全く違うのに、彼女とは出会った瞬間に波長が似ていると感じた。
性格は違うようで、実はとても似ていることもわかった。
物事の考え方捉え方もとても似ている。

あまり感情の起伏がなく、自分のペースを淡々と生きている風の二人。

でも心の中では荒れ狂うほどの何かを抱えていて、様々なことに疑問を抱きながら
しかしそれについてなにが出来るわけでもないちっぽけな自分のことも理解していて
せめて音楽で何かを表現できれば、、、それだけで生きている。

彼女は私のような何処の馬の骨かわからないミュージシャンではなく
正真正銘のちゃんとした音楽家である。
何しろ東京芸大卒である。
それだけで恐れ多い。
しかしそれを感じさせないとてもナチュラルで謙虚で、聡明かつ良い意味で普通の人である。
多分、一見して記憶には残りにくいタイプだろう。
言うなれば、私はそこの空気を壊すことも乱すことも変えることも厭わない悪目立ちタイプで
彼女はさもずっとそこに存在していたかのように溶け込むタイプだ。

にも関わらずもうずっと昔から友人であるかのようにリラックスでき、何でも話せるという
久々に「本当に波長の合う」人に出会えた気がする。

昨日数時間にわたり、彼女と音楽について語り、面白いなぁと思った。
音楽とは何か、と言う原点中の原点、かつこれほどむつかしいことはないテーマについて。

私たちにとって、上手い下手、センスがあるない、と言うのは聞けばわかることで
特に上手い下手については出だしの一音でわかる。
芸能人格付けチェックの安いバイオリンとストラディヴァリウスの違いや
アマチュアコーラスとプロのコーラスの違い
そんなのは一瞬でわかってしまう。

しかし、それはずっと音楽をやっているからであって、一般の人はわからない、と言う現実に我々は驚愕し
ショックを受けることが実に多い。

「あの人の演奏素晴らしいよね、感動した」と言うから聞いてみたら、とてもじゃないけれど聴けるレベルではないものであったりする。
何をもって素晴らしいのか、感動するのか、何も理解できずに混乱する。

こんな下手な演奏でそう思われて、必死に何十年も練習してきた私たちの演奏では感動してもらえないのか。
とガックリ肩を落とし、無力感に苛まれることは何度もあった。

人々は音楽の何を、どこを聴いているのか。
実は音楽を長年やっている、勉強している人間と、そうではない人間では全く別のものを聴いているのではないだろうか。

プロの写真家が「この写真のここが素晴らしい」と言っても私にはさっぱりわからないのと同じように。

それについて何かしら極めた、知り尽くした人間にしか見えない聴こえないものがあり
それはそうではない人たちには見えないし聴こえないのではないだろうか。

それ以前に、実はライブなどに足繁く通う人たちは音楽以外の他のものを体感しようとしている気がする。

それが何なのかは、私たちにはおそらく永遠にわからないのだ。
だって私たちはもう音楽をそれなりには理解してしまって、頭で考えてしまうから。

心で音を聞くことはもうなかなかむつかしい。
ピッチの合っていない演奏で、リズムのずれている演奏で感動はできないのだ。
そこにどれほどのバックグラウンドがあろうとも、下手は下手で、上手いは上手いでしかない。

プロのカメラマンが見れば一目瞭然の素人写真が一枚あるとする。
しかしそれを見て感動する一般人がたくさんいたとする。
いやいやこんなの誰でも撮れるでしょ、とプロは思う。
しかし、技術や経験値など知らんがな、勢の皆さんにとっては
『誰でも撮れるかも知れない』と言う身近さに心を寄せられるのだ。

そこには
「自分もできるかも知れない」と言う期待感もある。

そう、身近であること。
自分が理解できること。
自分と重ね合わせられること。

あまりにも凄い作品には、評論したり感想を述べたりすることすらもうわからないのかも知れない。
その凄さを理解するには、それなりの経験や理解力が必要であるからして
それを持ち合わせていなければ、人はその凄さについて理解しようとしなくなるのかも知れない。

めっちゃ可愛くて手の届かないアイドルより
会って世間話ができるアイドルの方が売れるのと同じで。

人はストーリーに感動する。
と言う言葉を聞いたことがある。
完成した作品よりも、その作品を生み出すまでのストーリーに感動する、と言う意味だ。
わかりやすい例は、体にハンディキャップがある人のパフォーマンスに感動したり
80歳で生まれて初めて挑戦したピアノの演奏に感動したり。
もはや作品やパフォーマンスについて上手いとか下手とか関係ない。
達成感を共有することで感動する、に近い。
もうこれは、全く別物である。
感動のベクトルが別方向。
なるほどね、これはこれで、間違ってないし感動する心理もわからなくもない。
がしかし、ストーリーを共有することを今更私は良しとできない。
制作過程や、出来上がるまでの苦悩の日々や、その作品に対する熱い想いなどなど。
見せたくないし、そこは作品とは無関係で、それは私だけの問題だと考える。
完成した作品をあなたが聴いて、あなたの感性で理解してくれればそれで良い。
と私は思ってしまうが、それはある程度音楽をやってきている人間のエゴであり
思い上がりであり、時として冷淡で、突き放しているとも言えるのかも知れない。

ストーリーまでも味方にできてしまうのは、無邪気さが必要だ。
まだ何も知らないわからない子供のような無邪気さと恐れのなさが必要だ。


それでも、何かを極めたい勢の人間は
もうそこには戻れない。

戻るとしたら、一周回ってからだろう。

それはまだまだ先のお話。

EARSY


記事一覧を見る

powered by crayon(クレヨン)